キャリア10年目で感じるアナウンサーの理想像とは?

アナウンサーは原稿を読むだけではなく、原稿に実感を持って伝えなければならない。その実感を多くの視聴者に持ってもらえるように現地に足を運び、自分で取材することを厭わない。2010年に山形テレビに就職し、フリーに転身後アメリカを経て、現地でのアナウンサー経験をもつ佐々木真奈美さんとのインタビューを通して、ニュースの最終伝達者であるアナウンサーにかける思いを伺った。(聞き手:浦上礼 明治大学  連載企画:学生が迫る、メディアの担い手の素顔)

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(アメリカのニュース番組に出演する佐々木さん)

アナウンサーへの道 「伝えることの楽しさ」

ーーアナウンサーになったきっかけはなんですか。

小学2年生で国語の教科書を一文音読したことがきっかけですね。怪我した競走馬が見事に次のレースで優勝したという物語を読んでいたのですが、ちょうど、私の読む番が「見事優勝したのです!!」という良い場面に当たったんですね。その時、その文を気持ちを込めて一生懸命に読んだら、教室でスタンディングオベーションが起きたのです。先生や友達が一斉に褒めてくれて、その時、自分は文章を読んで人に伝えるのが得意なんだなって感じました。それを機に学習発表会などの披露をする場では、進んでナレーションや語り部役を選ぶようになりました。


アナウンサーを将来のなりたい職業として意識するようになったのもその頃ですね。私の地元の北海道は東京では放送されていない地方のテレビ番組があります。例えば、「どさんこワイド」という日テレ系列の番組があり、そこでアナウンサーの方々が話題のお店やスポットに生中継に行くのですが、アナウンサーの方々がお仕事をしながら、美味しいものを食べたり、お出かけができ、仕事なのにこんなに楽しんでいていいなっていうのを幼いながらに思っていたのが理由ですね。もちろん小学2年生だったので、その楽しさのレベル感は、今とは全く異なります。ただ食レポに関しては、いざ自分でやってみると、美味しいものを伝えるのって非常に難しくて一番苦手ですね。でも、幼い頃の想いが形を変えて、楽しく仕事をしたいというのは根底にあります。


ーー学生時代のアナウンサー研究部での活動は具体的に何をされていましたか。

実をいうと、幽霊部員でほとんど行っていませんでした。というのも、北海道から上京し、キラキラした東京の子たちを目の当たりにして、私がアナウンサーになれるわけないと劣等感を抱いてしまい、足が遠のいてしまったからです。実際メインで行っていたのは、同じマスコミ系ではありますが、映像やドキュメンタリーを制作するサークルでした。早稲田のアナウンス研究会は総勢100人ぐらいで構成されている一方で、そこは10人くらいの超小規模のマスコミサークルでした。そっちの方が居心地が良かったですし、自分で取材して伝える楽しさや映像の撮影を含めたところはアナウンサー研究部では経験できなかったことかもしれないので、放送の楽しさに気づくことができました。

夢を諦めない「やりたいこととモチベーションは比例する」

ーー就職活動の際は、メディア業界を受けていましたか。

はい。99%メディア業界で、主にアナウンサーを受けていましたが、記者職も受けていましたね。

ーーキー局を志望されていましたか。

大学でアナウンサーを目指す眩しい人たちを見ていて、自分にキー局は難しいと思っていました。セカンドスクールでアナウンススクールにも通っていたのですが、そこでも磨かれた子たちに囲まれて、自分には叶うはずがないと思っていました。
*キー局:放送局の系列(ネットワーク)に放送番組を送り出す放送局のこと。親局ともいう

ーーそれでも、アナウンサーになる夢を諦めなかったのはなぜですか。

小学2年生からアナウンサーに興味を持ち始めて、アナウンサーの輩出数が一番多い大学も自分で調べて、早稲田に入学し、セカンドスクールにも入り、人生に投資もしてきたので、その夢から逃げたくなかったからです。就職活動の時に、北海道の局に最終面接で落ちて、1社だけマスコミとは全く関係ない業界を受けたのですが、その時の就活面接でやる気が出なかったんですね。それで、自分は好きなことを仕事にしないとダメなんだと改めて気づきました。

ーー山形テレビにはどういった経緯で就職されたのですか。

やはり自分と山形テレビの理念がうまくマッチングしたというところですね。私は、サークルで映像を使って自分で取材したりすることに楽しさを感じていたので、ただ原稿を読むだけでなく、自分で取材して、自分の言葉で伝えられるレポーター的なアナウンサーになりたかったんですね。でも、それは記者でもできる仕事で、多くの局が求めるアナウンサー像とはかけ離れていました。ですから、なかなか内定がいただけなかったんですね。一方、山形テレビは取材ができるアナウンサーを求めており、まさに自分のやりたいことと合致していたので、面接もうまくいき就職しました。就活を通して思うのは自分の能力が悪いという理由で落ちているのではなくて、企業とただマッチングしていないだけなんだと思いますね。

ーーテレビ業界に就職してはじめての失敗談は何ですか。

就職してまもなくして、山形のある地域に取材に出かけた時に、地元の方にインタビューして返ってきた答えが全くわからなかったことですね。「いかがですか。」と質問したのですが、その返答で話された内容が全く理解できず、コメントを何も挟まずに「ありがとうございました」とインタビューを終わらせてしまったんですね。それから、一緒にいたカメラマンの方に「お前ごしゃがれっぞ(怒られるという意味)」って言われて、その言葉もよくわからず、すごくあくせくしてしまいました。ですから、山形弁を理解するところから私のアナウンサー人生は始まりました。でも、数ヶ月経って、とある時、電話を受けたときに「はい。山形テレビの佐々木でした〜。(電話で自分の名前を名乗る時に過去形にする)」と言った時は私も一歩山形県の人に近づけたと思えた瞬間ですね。


ーー山形テレビでの印象に残ったエピソードや経験はありますか。

山形の特産物であるさくらんぼの取材です。毎年、山形県のテレビ局はその年のサクランボの生育状況を細かく伝えているのですが、そんなある年、さくらんぼの生育状況が良くなかったことがありました。そこで、さくらんぼ農家さんのところへその理由を取材に行ったんですね。実際に取材してみると、農家さんが天候状況が非常に悪い中、いろいろな工夫をして、なんとか「さくらんぼの山形」というプライドを守るために、日夜休みなくさくらんぼのケアをずっとやっている姿を目の当たりにしました。当時メインキャスターでしたので、どれほど農家さんたちが頑張っているかをそこでお伝えしました。すると、さくらんぼ農家さんから「僕たちの影の努力を伝えてくれて本当にありがとう」という感謝の言葉をいただきました。「声を伝えられている」という感触を持った仕事が初めてだったので忘れられません。

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(山形テレビ時代)


「テレビ離れ」するアナウンサー

ーー近年「テレビ離れ」ということ言葉があるように、テレビを見る人が年々減っている傾向にありますが、それでもテレビ局に就職しようと思った理由はなんですか。

私は2010年入社なのですが、当時はテレビ業界は非常に人気だったので、全くそのようなことは考えずに就活していました。むしろ超人気の企業に向かって行かなきゃいけないというような気持ちでしたね。一方で、今の時代の子供たちはユーチューブのある時代で育ってきているからこそ、テレビ業界への志望度は当然低くなるんだなと思いました。(参照記事:2010年の就職人気ランキング2020年の就職人気ランキング

ーーアナウンサーとして、「テレビ離れ」の影響を感じたことはありますか。

はい。感じるというよりも、アナウンサーの仕事自体がもはやテレビ離れしていますね。現在、フリーランスでアナウンサーをやっているのですが、仕事の媒体がテレビよりもむしろネットが増えました。例えば、テレビのディレクターさんがYouTubeのコンテンツを作る方に移っていますね。


フリー転身で挑戦を無限大へ

ーーフリーに転身された理由はなんですか。

自分の行きたいところで取材し、伝えたいことを伝えられるアナウンサーになりたいと思ったからです。フリーに転身する前は山形の地方局で働いていたのですが、入社1年目で3・11東日本大震災が発生し、山形テレビでのキャリアは東日本大震災と共にというような人生でした。そこで広い地域に渡って震災取材をしたいという気持ちがあった一方で、自分は地方局のアナウンサーだったので限界があり、そこにジレンマを感じました。そうなった場合、取材範囲が全国に渡っているのは東京のみなので、東京に行き日本全国のことをカバーできるアナウンサーになろうと思い、フリーに転身しました。

ーーフリーアナウンサーに転身してみて感じる、フリーの長所と短所は何ですか。

フリーランスの長所は、新しいチャレンジが無限大にできることですね。一方で、短所は無限大がゼロになる可能性があることですね。私は取材の幅を広げるために東京の放送局でアナウンサーをやりたいと思っていたので、フリーへの転身は大きなチャレンジでもありましたが、取材の幅を広げるという目的を達成できたので転身してよかったと思っています。

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「実感を持って伝えたい」とアメリカ留学

ーーアメリカ留学のきっかけは何ですか。

国際ニュースを実感を持って伝えたいと思ったからです。フリーに転身後、TBSのニュースバードのキャスターになり、東京のテレビ局の報道番組に就き、日本全国で起こっていることを自分でカメラを持って取材に行くことができるようになったのですが、TBSのキャストになると日本だけでなく国際ニュースも伝えます。国内の話の場合、直接的に私たちの生活に関わるのでニュースを伝えていて実感が湧くのですが、世界のニュースになると途端に原稿を読むだけになってしまい、遠い世界の話のように感じていました。例えば、テロや人種差別のことは、日本で日本人として暮らしていたら当事者意識は持ちづらいと思います。それでせめて自分の読むニュースは実感を持って伝えたいという気持ちが芽生え、アメリカもしくはどこかの外国で暮らしてみたいという思うようになり、留学することに決めました。

ーー留学に行く際の障害や課題はありましたか。

もちろんありましたね。ちょうどその当時、地上波のメインキャスターをやらせてもらった時だったので、そのポジションを手放すというのは自分自身もかなり勇気が要りました。周りからも止められましたし、アメリカ留学を行くことはある意味キャリアをゼロにすることでもあったので、そこへの葛藤はすごくありました。

ーー留学中はどのような生活をしていましたか、

まずは、語学学校に通っていました。私は帰国子女でもなく、大学でも英語が特に苦手だったので、最初は語学学校に行き、残りの半年でノースカロライナ大学チャペルヒル校のスクールオブメディアアンドジャーナリズムで客員研究員をやっていました。


当事者になってわかるマイノリティ・ジェンダー問題

ーーLGBTQやマイノリティ論に興味を持つようになったのは何故ですか。

きっかけはアメリカ留学ですね。アメリカ留学以前は、日本人として日本で暮らす中で差別を受けることはほとんどありませんでした。しかし、アメリカに行った途端、英語も話せないアジア人の外国人というマイノリティになり、そこで初めてマイノリティとして生活することになりました。実際、差別を受け、現状を肌身で感じ、この時の気持ちを差別とは縁遠い日本の方々に分かってもらいたいと思うようになりました。

私がアメリカにいた際に取材したフェムテックはNYのベンチャー企業で、女性の生理の吸血ショーツなどを商品を売り出しています。女性の生理は女性同士でもあまり話さなかったり、少し話すことにタブー感があったりします。この会社はそういったことをもっとオープンにして女性の健康についてもっと話していこうといった理念から生まれました。しかし、女性の生理をオープンにするのはそれほど容易ありません。そこで、この会社は女性の生理のための便利グッズを売り出し、より多くの人々が女性の健康について考えていくことを目的にしています。つまり、直接的に伝えるのではなく、少し見方を変え経済的な観点からメッセージを発信するのは非常にいいなと思いました。実際、取材後も視聴者さんから良い反応をいただきました。アメリカに限らず、そう行ったことが話しやすくなるように企業がもつ社会的課題や理念を広げ、物の価値観や考え方が良い方向にアップデートされていくといいですね。

ーー大学の授業でメディア倫理論が印象に残ったそうですが、それは具体的にどのような理由ですか。

メディア倫理の授業はメディアの倫理学や倫理観を学べると思っていたのですが、授業の内容はマイノリティ差別やジェンダー差別といった様々な差別に関することを学ぶ授業だったからです。私は日本のメディアにいた際、メディアと差別に関する研修を受けたり、学んだりしたことは全くなかったので衝撃的でした。

ーー具体的にメディアの差別とはどのようなものが挙げられますか。

例えば、日本のテレビでよくありがちですが、白人で金髪の女性を旅番組内などで見かけると「白人金髪の美女発見」というようなテロップを出すことがあります。アメリカ留学以前はこのような表現にあまり違和感を感じていなかったのですが、メディア倫理学を受けて、「どうしてメディアが白人でブロンドの人がビューティフル(綺麗)という風に見えてしまうのだろうか」と問い直すようになり、メディアが美しさの定義を押しつけ、結局偏見を生み出しているのではないかと考えるようになりました。授業の中では、そう言った表現1つ1つをチェックしていき、私たちメディアが勝手な偏見を視聴者に与えてないかを議論しました。同時に、自分は日本で番組作っていた時、そういったジェンダーやマイノリティへの配慮に欠けた情報を流していたなと痛感し恥ずかしくなりました。

ーー現在はジェンダーやマイノリティに配慮した報道をしていますか。

はい。もちろん原稿に書かれた内容にそういった問題があれば直します。他方に、放送時に問題が有れば、少しコメントを挟んで訂正もします。しかし、日本のメディアにはメディア倫理に関する具体的な研修は少なくとも私自身は受けた経験がなったので、やはり知らなければ差別を解決するのは難しいなという課題感も感じています。なので今後勉強会のような学ぶ機会を作りたいという目標があります。

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仕事・アナウンサーへの価値観の違い 日本×アメリカ

ーーアメリカでのお仕事は具体的に何をなさっていましたか。

まず、タイムズスクエアにあるロイター通信と契約をし、そこのジャパンデスクで日本のTBSに向けての取材や、その番組のレポーターとして出演しました。また、ハワイやアラスカを含めた全米50州に住む日本語話者や日系人に向けてのラジオ局でパーソナリティを務めたり、目覚ましテレビさんのNYレポーターなどを経験したりしました。さらに、毎週日本の文化放送のラジオのレポーターとしてアメリカの政治経済、文化などを取材していました。

ーーメディア業界で何か日米の働き方の違いを感じましたか。

はい。NYで働いていた時、当日中に完成させなければならないというVTRがあり、夜まで台本を書いていました。そして、気づいたら夜8時くらいになっており、立ち上がって周りを見回してみると大きなオフィスルームだったのですが、私以外誰も残っていませんでした。一方で、日本のテレビ局の場合は、8時に帰宅しようものなら、「お先に失礼します」というように帰るには早い時間なのです。ですから、アメリカで長時間労働が当たり前ではない環境を目の当たりにして、アメリカの方々は仕事のオンオフがはっきりしているなと感じました。

ーーアメリカのオンとオフがはっきりと区別された働き方には共感しますか。

どちらかというと、人によって異なると思っています。というのも、私自身もメリットとデメリットの両方を感じているからです。メリットとしては長時間働くことが評価の対象にならないので、子育てをしながら働く人にとっては子育てに時間を割くことが可能なので非常に良いと思います。一方で、デメリットとしては、日本のテレビ局でよくあるように、夜中まで会社のメンバーと一致団結して頑張ろうというようなことができない点ですね。さらに、日本に比べ時間内に自分の最大限のパフォーマンスをしなければならないので、ある意味大変です。

ーーアメリカ留学の前後で佐々木さんの考え方はどのように変化しましたか。

特に変化したのは自分の伝える内容です。アメリカで働いていた時に、現地のアンカーの方々は自分の意見をしっかり持っているという印象を受けました。そこで、ただ原稿内容を読んだり、中立であろうと考えるのはなく、伝えるべきことがあれば自分の意見も発信していくべきだと考えが変わりました。


アナウンサー業界には、学生時代に留学をしていたり、英語が話せたりする方は多くいるのですが、外国でアナウンサーとして働いた人となるとほぼいなくなります。ですから、現地で働いた自分だからこそ、発信できることはあると考えています。この経験を生かして、アナウンサー業界に新しい風を吹かせることができるといいなと思って模索しています。

ーーアナウンサー人生で男女差別を受けたことはありますか。

特にありませんが、日本の女性アナウンサー業界では「若さ」が強調されることがあります。20代後半になった時に、先輩アナウンサーからは30代になると何か武器を身につけないと業界で生きていくのは厳しいと言われました。でも、この傾向は男性アナウンサーには当てはまりません。他方で、アメリカは全く異なります。アメリカではアンカーになるためには記者としての経験を積み、最終伝達者としてアナウンサーになります。だから、アメリカのメディアで勤務をしていた時、当時30歳の私がいつでも現場で一番年下で、「真奈美はこれからどんどん活躍できるね」とよく言われました。つまり、日本では30歳になると今後のキャリアが危ぶまれる一方で、アメリカではむしろアナウンサーになるには早すぎる年だということです。国よってアナウンサーに求める像というのは全く異なっていて、この違いは非常に興味深かったですね。

ーーアナウンサー業界はコロナの影響を受けましたか。

はい。イベントの司会となどもアナウンサーの仕事なので、イベント関連のお仕事は全くなくなりましたね。一方で、オンラインの仕事が増えました。

ーー佐々木さんは今後どのようにアナウンサーとしての目標はありますか。

日本のメディアでまた働きたいと思っています。さらに10年後を見据えると、アメリカでの経験は非常に刺激を受けたので、もう一度アメリカに挑戦したいなと思っています。

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未来のアナウンサーたちへ

ーーアナウンサーになりたい方々へメッセージをください。

私は、複数の局に落ちて、一般企業を受けたりもしましたが、最終的にアナウンサーになれて良かったと心の底から思っています。ですので、アナウンサーになりたい気持ちがあるなら、その気持ちを大事にしてほしいですね。東京の局に落ちてしまってアナウンサーになるのを諦めてしまう方がいますが、私は地方だからこそ学べるスキルというのは必ずあると思っています。実際、私が地方局でアナウンサーをやっていなかったら、アメリカのアナウンサー業界で働くことができませんでした。アメリカのアナウンサーは原稿を読むだけでなく取材もできて、自分で撮影して映像編集までできることが求められます。ですから、地方局で取材をしたり、映像編集をしたりという経験はアメリカに行った際非常に役に立ちました。どのような地域に就職されようとも、必ず学べることはあるので、夢を諦めないで頑張ってほしいですね。応援しています。

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佐々木さんのポートフォリオ

佐々木 真奈美
早稲田大学 第一文学部 卒業後、 山形テレビに就職。フリーアナウンサーに転身後、TBSニュースバードキャスターを務める。2016年にTBSニュースバードキャスターを降板し、米ノースカロライナ大学チャペルヒル校 ジャーナリズム学部 客員研究員としてアメリカ留学をし、現地でのアナウンサー実務経験を持つ。現在は日本に帰国し、フリーアナウンサーとして活躍。ポートフォリオはこちらから。

聞き手&執筆担当:浦上 礼
株式会社クロフィー インターン
明治大学3年 文学部文学科仏文専攻

インタビューを終えて:
アナウンサーというと原稿を正しく読み、ニュースをわかりやすく伝えるということのみが強調されやすい。しかし、佐々木さんのように記者的な一面を持つマルチで働くアナウンサーがいることを知り、ニュースを聞く姿勢が変わり、自分自身、日本のみならず世界のニュースについてもっと当事者意識を持てるように努力しなければならないと思った。

本連載企画について:
記者ら、メディア関係者のための業務効率化クラウドサービス『Chrophy』を開発する株式会社クロフィーでは、『学生が迫る、メディアの担い手の素顔』と題した本連載企画を行っております。編集は庄司裕見子、カバーイメージは高橋育恵、サポートは土橋克寿
ご質問などございましたら、こちらの問い合わせフォームよりご連絡願います。また、弊社のインターン採用・本採用にご興味を持たれた方は、こちらの採用情報ページよりご連絡願います。

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